おれが、おとうさんになって、おじいちゃんになる話
- Yoshiteru Yamada
- 6月19日
- 読了時間: 2分
〜人生と一緒に変わっていく、日本語〜

小さいころは「ぼく」だった。
少し大きくなって、「おれ」になった。
仕事を始めて「わたし」になった。
そして、子どもができて「おとうさん」になった。
「さあ、おとうさんを超えていけ!」
なんて言ったことはもちろんないけど。
「おれ」でも「ぼく」でも「わたし」でもない。
いつの間にか、“おとうさん”と自分を呼んでいた。
(ちなみに普段は「ぼく」をぼくは使っている。「おれ」はらしくないなといつの頃からか、感じたからだ。)
名前じゃなく、役割で自分を呼ぶ。
日本語の特徴のひとつだ。
自分の名前でも、性別でもなく、「誰かとの関係」で一人称を選ぶ。
「おじいちゃんは、もう眠いよ」そう話すとき、自分が誰かの祖父であることが、一人称にまで入り込んでくる。
英語ではこうならない。“I’m tired” は言っても、“Grandpa is tired” なんて、自分に対しては言えない。日本語の一人称は、「関係」そのものを語るようだ。
人生とともに変わっていく「わたし」
たとえば、二十代の頃の「おれ」には、ちょっとした勢いがある。
三十代になって「わたし」に変わると、どこか整理された感じになる。
そして子どもが生まれて、「おとうさん」や「パパ」。
さらに孫ができれば、「おじいちゃん」だったり「じいじ」だったり。
この変化は、単なる呼び方の違いじゃない。人生のステージごとに、自分の語り方が変わっていくということ。
日本語は、役割や関係を日常の中に忍ばせてくる。
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